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おしらせ

2019

日本聾話学校広報誌 第38号『野津田の丘から』 

2019.12.05

第38号『野津田の丘から』

「心の鎧をぬぎすてて」
校長 鈴木 実

澄みわたる青空の中、丹沢の山並みを見つめるようにして真っ白な頂が姿を現しました。ようやくの初冠雪が、野津田の丘を実りの季節へと導いてくれているようです。
 「ねえ、こんどいつ見にくるの」「今日、それとも、明日きてくれるの」「待ってるからね」廊下ですれ違った小学部低学年の子が、私に話しかけてきました。それは、数日前に算数の授業のようすを見に行った私への更なる誘いのことばでした。

 日本聾話学校は聴覚障がいの子どもたちが聴いてお話をするという、耳を開く教育を行っています。ただし、耳を開くと言っても、聴力を鍛えるような訓練をしているのではありません。コミュニケーションとして大切なのは、心を相手に向け、想いを届けたいとか、分かり合いたいという、人との共感的な関係性です。それは、「嬉しいね」とか、「心配だね」「でも、きっと大丈夫だよ」などという体温が伝わるやりとりのことで、互いの心に関わることなしには生まれることのないものです。楽しいことはもちろん、たとえ辛く苦しいようなことであっても、そこに温もりを届け合う共感的で対話的なやりとりがあれば、自ら心を開いて互いの想いを聴き合うようになり、そして、心も豊かにされるのです。もし、訓練的に耳を開かされ、言語指導的にことばを押しつけられるならば、いちばん大切な互いの想いは横に置かれたままとなり、それでは、本当の意味で耳が開かれることにはならないのです。

 世の中はどんどん便利になっているのですが、社会が画一的になり、そして、暮らしが合理的に整えられていく時代の中で、私たちは互いの本当の想いを届けにくくなっていて、トラブルを恐れ、関わりを避けるようにして世の中が動いているようにさえ感じてしまいます。心に鎧を着て過ごすか、我慢がきかなくなると感情を爆発させるしかなくなります。心が歪められるような中で、虐待や、育児放棄、最近では教員による同僚へのいじめ等、様々のことが問題となり、社会全体が傷ついています。とても悲しいことです。

 私は、「ねえ、こんどいつ見にくるの」「待ってるからね」という小学生の心の佇まいに救われるのです。肩の力の抜けた自然体の子どもの姿がそこにあって、小さな子どもから自由さをもらって気持ちがとても軽くされるからです。幼いときから想いに寄り添ってもらって、心を聴いてもらう中で育った子が、閉塞感のある生活に光を注いでくれます。聴覚主導の人間教育は人との関係をつなげる歩みそのものであり、関わる人の想いを開放していくのです。そんな地の塩、世の光としての使命が与えられている小さな学校のささやかな取り組みですが、どうか、子どもたちの成長を通して主のみ業が成りますよう、お祈り、ご支援をよろしくお願いいたします。



「子どもの内にある『ストーリー』を聴く」
幼稚部教諭 相島 悟

年少の子どもたちと共に過ごし、日々新しい出来事に出会います。一人ひとりに個性があり、それぞれのタイミングで新たなステップに進みます。食事面、排泄面、身支度の面など表に現れる事柄であれば、その変化に気づきやすく次のステップに進みやすいのですが、内面の変化には気づきにくいことがあります。特に年少時期は、“言葉” でのやりとりがまだ難しい時期でもあります。“言葉” で子どもたちの正確な思いを聞くことができないことが多いです。
しかし、子どもたちの中には、その子にしかない『ストーリー』があり、そこに伝えたい『ことば』が存在していることがわかります。その『ことば』を聴くのに、子どもに向き合ってアンテナを張ることが求められています。一対一であれば向き合いやすいのですが、グループ活動などになると同時に伝えてくることや沈黙の中にその『ことば』があることがあり、私の聴く姿勢がいつも問われています。

 先日、「今日は晴れだね」と私に話しかける子がいました。その子は、カレンダーや天気を確認することが好きな子です。私は「そうだね。今日も晴れたね(昨日も晴れていたけれど)」と返しました。少ししてからその子が「雨は、お外に行けないね」と話してきました。この二つのことばを聴いて初めて気づかされました。その子はただ“天気を確認” するのではなく、『晴れるとお外で遊べる』とつながっており、『お外で遊べるのが楽しみだ』という『ストーリー』があったのだと。
“言葉” として端的に「晴れだからお外で遊べて嬉しい」と表現できなかったのかもしれませんが、その子の内には“言葉” にならない『ことば』があり、先生に『自分の思い』が伝わるように考えた末の「雨は、お外に行けないね」であったのだとその子の成長を嬉しく思いました。
 またお当番活動でみんなから「よろしくお願いします」と言われ、「頑張ります」と返す言葉があります。自発語の少ない子もお当番をやりたいという思いから「頑張ります」と自発的な“ことば” として話す姿を見た時に驚かされました。自分が心からやりたいと思える事柄であれば、自発語になっていくということを感じた瞬間でした。

 このように子どもの思いに気づける時もあれば、子どもの『泣き声』や『言動』の意味を受けとめられず、わからないまま、強く注意をしたり、無理矢理に切り替えるように求めたりしてしまった失敗もあります。
どうしてそのような『言動』をしているのか子どもの『思い』を受けとめ、やりとりすることができていないこともあるのです。このようなことを繰り返さないためにも、その子の『思い』のひと欠片でも知り、その子との次のやりとりに生かすことができるように省みる日々です。私自身も子どもたちやお母さん方との関わりの中で成長させていただいています。



「自分のことばで語る」
中学部教諭 佐藤 茜

私は二十数年前、新卒教員としてこの日本聾話学校の門をくぐりました。しかし聴覚障がいについての知識が全くない新人教員でした。だからこの学校に来て「聴覚主導」という新しい言葉に出合い、戸惑ったことを覚えています。「聴覚主導とは何ですか?」という、私の質問に対して、先輩の先生は「聴覚主導っていうのは、生き方の選択肢を広げることなのよ。」と答えてくれました。その答えを聞いて私はさらに戸惑ったことを覚えています。

当時私は、幼稚部の子ども達と個別(一対一で話し合う時間のこと)をしていました。今と変わらず、絵本や絵日記を使う個別でしたが、気持ちの通い合うやりとりは簡単には出来ませんでした。この子は私に何を伝えようとしているのだろうか、子どもの声を聴こう、思いをくみ取ろう、と必死になっていた日々でした。新しいことばにふれさせたいと思っても思うようには出来ず、ふがいない自分が悔しかったこと、よく覚えています。生き方の選択肢…と言われても、その意味を理解することはできませんでした。

いま私は、中学部で社会科を教えています。この二十数年で補聴器・人工内耳の技術的な進歩は目覚ましいものがあります。今の中学生たちに、趣味は…?と聞くと、音楽鑑賞・ダンス・ユーチューブ鑑賞・スポーツ・スポーツ観戦・読書・鉄道鑑賞などなど、今どきの中学生とほとんど変わらない答えが返ってきます。また休み時間は、友達同士の大事なおしゃべりの時間…教室のあちらこちらでいつも楽しい話し声や笑い声が聞こえてきます。どの生徒も気兼ねをすることなく、その生徒らしく過ごせる所…それが今の中学部の姿です。

しかし日本聾話学校には高等部はありませんので、中学の3年間で次の進路を決めなければいけません。みな悩みながら「自分にぴったり合った学校」を探していくのです。ある生徒が、進路先に悩みながらも、「高校は心配…友達ができるかどうかわからない…でもやっぱり挑戦したい。だって後悔したくないから。」と、はっきり私たちに伝えた時の、すがすがしい顔を忘れることはできません。
聴覚主導とは生き方の選択肢を広げること…今そのことばを実感する毎日です。中学生が、自分の生き方を選び、大きな社会へ挑戦しようとその一歩をふみだす時、そこに必要なのは大人の知恵ではありません。「自分のことば」なのです。そのことばは、自分の内から自然とわき出てきたことばでなくてはならないのだと思います。中学部では、「自分で考えて、自分で決めなさい。」と常に声をかけています。時には失敗もあるし、回り道もあります。でも私たちに出来るのは、その「ことば」が出てくるときを待ち続けていくこと…その過程が大切なのだと思います。

ライシャワ・クレーマ学園 保護者アンケート結果まとめ

2019.03.18

2018年度に実施した保護者アンケート結果まとめを公表いたします。

保護者アンケート結果まとめ(PDF)⇒2018年度 ライシャワ・クレーマ学園 保護者アンケート結果まとめ

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