聴覚活用の歴史

※オレンジ色は本校聴覚活用に関する項目

裸耳の活用

98~117頃

[アーカインジス]

ギリシャの医学者・科学者 ラッパなど大きな音を聞かせることをすすめた。残存聴力の活用という原則の最初の提唱者

1821頃

[イタール(1774~1838)]

フランスの聴能学と耳科学の先駆者・パリ聾学校の校医(1805年専任となる)いろいろな楽器を用い大きな音にさらすことを主張し音声聴取が伸びることを発見、母音の弁別を試み成功した。アクメータと称する検査器具を考案し聴力検査なども試みる。言語を重んじ「手話」に対して「視話」や「口話」を試みている。「アヴェロンの野生児」の教育実践に取り組んだ経験を持つ。

1899頃

[ヴィクター・ウルバンチッチ]

オーストリア・ウィーンの大学耳鼻科教授。聾児の教育に聴覚を使うことの主唱者。基本的には耳元で大きな声を出すことに依存する方法(アドゥ・コンカム ad.concham)によって聴能を伸ばすと同時に残存聴力をより良く使う効果的な方法を示した。

1800後半

ヨーロッパ・アメリカで聾児に音を聞かせる色々な機械的装置が作られた。

1.セリストン・イヤ・チューブ(複数のチューブをもつ集団補装具)

2.色々な音声チューブ(スピーキングチューブ)

 これらは教師の声のみでなく生徒自身の声も聞こえるように作られた。

 聴覚フィードバック概念の初期的認識である。

チューブの活用

1893

[ジェームス・カー・ラブ]

イギリス人 イギリス・グラスゴー聾学校の児童の中、全聾は10%未満、その他の児童は大きな音声を聞くことが可能と報告。従って、聾児教育では残存聴力を使うことが至上の重要性を持つと主張。

1897~1920頃

[マックス・ゴールドスタイン]

アメリカの学者 ウルバン・チッチの弟子。残存聴力活用の重要性を強力に提唱。ミズリー州セントルイスのセント・ジョセフ聾学校勤務中、毎日15分聴覚的練習を与えるプログラムを作成(1897)その結果話し言葉のよりよい理解と音声明瞭度の成果報告(1939)を行ない「教師の口と子どもの耳の間に硬い紙を介在させるかメガホンや簡単なチューブを用いて話すようにしなければならない」と主張。訓練方法を本にし聴覚法と呼んだ。

1914年セント・ルイスにセントラル聾学校創設。

1900年オーストリアのウイン・ポリッツァ・クリニックのフェルディナルド・アルトが最初の電気的増幅装置を製作。

[アレキサンダー・グラハム・ベル(1847~1922)]

ベルは電話の発明による(1876)特許料を聾者の教育と福祉の為に使いボルタ・ビューローを設立(1887)1890年にはアメリカ聾スピーチ推進協会(後にグラハム・ベル協会)設立。ベルはスピーチ指導を推進。聴覚利用、難聴教育に力を入れた。スピーチ指導にはビジブル・スピーチ(視話法)を用いた口話法教育を行なった。ベルはオージオメーターを発明し聾学校児童の聴力を調べたが性能不十分で成功しなかった。ニューヨークのベル電話研究所のフレッチャーは「スピーチとヒヤリング」(1929)を出版。

補聴器の活用

1926(昭和1)

[西川吉之介(1874~1940)]

聾の娘浜子の教育に全力を尽す。私費で「聾口話式聾教育」誌発行。自宅に「西川聾口話研究所」設立(1924) 1928年県立滋賀聾話学校設立に寄与。初代校長となる。聴話法を提唱し、残存聴力は刺戟と練習で発達すると主張。

1927(昭和2)

日本聾話学校にアメリカより集団補聴器が寄贈され聴能訓練を試みるも故障多く十分に活用できず。

1934(昭和9)

東京聾唖学校に電気拡声装置が設置される。

1936(昭和11)

[ユーイング夫妻]

イギリス・マンチェスター大学教授  イギリス聾学校の児童の聴力調査実施。カー・ラブの報告を実証。強力集団補聴器を設計製作しイギリス12の聾学校で実験的に使用し報告(1938)「この装置の常用は音声や言語の発達をもたらす」と。

1954年には聴覚読唇法を説き「聴取と読話は常に同時に用いるべきで可能な限り早期(1才頃)から実施すべき」と主張。

1937(昭和13)

[ウェーデンベルク]

スウェーデンの歯科医 自らも聾の息子を持つ。ウルバンチッチの方法を用い、床に腹ばいになって子どもの耳元で話すことを行なったが後に補聴器を広く活用。教育の場では低音・高音を含む意味のある教材を用いることを示唆。ユーイングと同じような主張を持つが、異なることは「子どもに口元を読む機会を与えず耳元で話しかけるだけにすれば視覚からの印象を減じ聴覚刺戟を一層意識に刻み込むことができる」と主張。これが「ユニ・センゾリアプローチ」(単感覚アプローチ)と呼ばれるもの。

1944(昭和19)

[ヘレン・ビービー]

アメリカのクラーク聾学校で訓練を受けた口話法の教師。「読話は可能な限りさけ聴覚を優先し聴力が使えるようになった後、読話を学ぶように」とユニ・センゾリーを説く。この年ペンシルベニア州イーストンに「ヘレン・ビービー聴覚言語センター」設立

1948(昭和23)

日本聾話学校にアメリカより電気的聴力測定器寄贈される。本校児童の聴力測定のみならず在京聾学校児童の測定にも広く使われた。

1949(昭和24)

日本聾話学校にアメリカより10個の中古個人補聴器届く。電池別の弁当箱大のもの。補修しながら使用。

1950以後

1950(昭和25)以後

[C・Ⅴ・ハジンズ]

アメリカ・クラーク聾学校の研究部長で心理学者。音声や聴覚に関する色々な研究や実験を行い聾教育に直接役立つ成果を残す。聴力活用の限界はと問われて「限界は空だ」=「Sky is the limit」「限界は無い」と。「限界は人の頭の中にある」という。

[エディス・ウェトナル]

イギリスの耳鼻科の女医。 単感覚アプローチ(ユニセンゾリー)として聴覚的アプローチ(オーディトリアプローチ)を主張。聾の娘を持ち生涯聴覚障害の研究に捧げた。「オーディトリ・トレイニング」という言葉を用いた。

[ドリーン・ポラック]

アメリカ・デンバーのポーター記念病院のクリニックで「スピーチ・ヒアリングサービス」のディレクター。ユニ・センゾリの熱心な提唱者。その指導はアクピーディクス・アプローチと呼ばれるもので、音韻から入らず生の言葉を耳で聴いて生の言葉をそのままものにしていく方法をとった。

[ハンク・ヒアウジンズ]

オランダのグローニンゲンにある聾学校のオーディオロジ—クリニック所長・オージオロジストである。ポーラックの指導を見て従来の伝統的口話や聴能訓練とは区別して、その指導を「アクピーデクスアプローチ」と名付けた。

[シワ・グリフィス]

アメリカ・カリフォルニアの「HEARファンデーション」に属す。「小さいときからユニセンゾリ法の教育を行なえば補聴器を使わなくてもよいようになる」と述べ、その時期は8ヶ月までに行なうことを主張」

[ダニエル・リング夫妻]

カナダのモントリオールのマギル大学医学部教授。マンチェスターの聾教育者・ノーマルな発音にしていくことに力を注ぐ・聴覚活用を基本とした発音指導法を確立、出版する

[リチャード・シルバーマン(~2005)]

ワシントン大学オージオロジー教授。トロントに住む聾児を持つ祖父母に忠告して「子どもを音のお風呂に入れなさい」と助言。ディビスと「ヒヤリングと聾」を共著「CIDのゴールドとシルバーと云われ聴覚活用推進者・ゴールドとはゴールド・スタインのことである。

[モラグ・クラーク]

イギリス・バークデール聾学校元校長・徹底した聴覚活用を唱え、インターラクションによる聴覚的自然な言語を習得することを主張

1952(昭27)

電池を本体に納めた小型化された個人補聴器出現で幼稚部3才児クラス全員に装用を試みる

1961(昭36)

小学部三年クラス6人全員に両耳補聴を試みる

1965(昭40)

全校生徒の両耳装用を始める

1968(昭43)

オージオロジー部を確立する

1988(昭63)

赤外線システムによる集団補聴設備が導入され始める

1989(平成1)

聴覚活用が深まり本校教育を「聴覚主導の教育」と唱え始めるようになってきた

製作・監修 畑 昭夫
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